随想
「お前は時間が経てば自然と上手くなると考えているのではないか―」
これは私が1年の時、一緒に自主練をさせていただいていた際に当時の主将がおっしゃった言葉である。これを言われたとき、ゆとりで浅はかな私は、愚かにも「懸命に努力している人間に対して何てことを言うのだ」という怒りに似た感情しか抱いていなかった(本当に申し訳ございません)。しかし、今にして思えばこれがすべてであったように思われる。私は不器用で、何をするにも人一倍時間がかかる人間で、中学時代の部活動、大学受験など、それまでのことはたいてい決して効率が良いというわけではないが、自分なりのがむしゃらな努力で何とか切り抜けてきた。大学の部活動でも、自分なりに一生懸命練習しているつもりで、このまま努力を続けていれば、いつかきっと報われるはずという淡い期待を抱いていた。しかし、この努力は自己満足にすぎなかった。終わってみれば、怪我で棒に振ったリーグ2回、主将として臨んだ3年の秋リーグでは後輩にレギュラーの座を明け渡し、4年間でリーグ未勝利という散々な成績である。この結果を見てもわかるように、「自分なりの必死な努力」は自分に幾度となく怪我をもたらし、リーグでの勝利をもたらさなかった。
自ら言うのはおこがましいが、自分が努力をしていたという点は嘘ではない(そもそもここでいう「努力」の量も不足していたのだが)。ただ、その努力は単なる自己満足で、本当に必要なものではなかったのである。同期の富山、濱口のように、量だけでなく、自らを分析し、弱点を細かく分析し、目標を明確にして練習に取り組む必要があった。今にして思えば、私に必要な努力はこれであった。もちろん、当時も彼らを見習って同様に取り組んでいたつもりではあった。しかし、後で彼らの話を聞いたり、実績を比較したりすると、簡単に自分の限界を決める私はその努力がかなり不足していたことは明らかであった。
このような人間が主将になったことが原因で、3年の春にはチームを降格させてしまった。この時私はというと、直前まで怪我を抱え、3戦出場して全敗という悲惨な結果であった。主将といえば、伊豆先輩や瀬口先輩のように、言葉は少なくとも戦う姿勢で皆を引っ張る人、あるいは野田先輩や瀧根先輩のように、テニスはもちろん、部員一人一人に気配りを忘れない人でなければならないと思っていた。私はそれらの要素をどれも持ち合わせておらず、焦ってその方々全員になろうとしてしまった。その結果、非常に中途半端な主将となり、降格という最低な結果をもたらしてしまった。当時の先輩、同期にはもちろんであるが、特に後輩たちには今でも申し訳ない気持ちでいっぱいである。この時のことは、生涯忘れることはないと思う。この後、秋リーグに向けて、ご自身も非常に多忙であるにもかかわらず、コーチを担ってくださり、チームの立て直しにご尽力いただいた義経元志様には心より感謝申し上げます。3年の冬からは自身の試験勉強のため、約8か月もの間休部をさせてもらっていた。本来であれば、先輩方がそうであったように、前主将として次の幹部を支援しつつ、チームに貢献しなければならなかった。それがせめてもの恩返しになるはずであった。しかし、結局自分のことで精一杯となり、その役割を果たすことさえできず、またしてもチームに迷惑をかけることとなった。それどころか、この休部期間、部員からは多くのエールをもらい、むしろ自らが勇気づけられていた。部員の応援がなければ、間違いなく試験は乗り切ることが出来なかったと思う。このことは今でも本当に感謝している。この間、男子部は降格などもあり、厳しい状況にあることも話には聞いていたが、何の力にもなることが出来なかった。あまりに無力で情けないと感じた。本当に申し訳ない限りである。
ここまで反省文じみたことを書いてしまったが、この部活に入ったことに関しては全く後悔していない。特に、新歓期にほぼ初心者であった私のことを熱心に勧誘してくださった瀬口先輩には心から感謝申し上げたい。部員は皆、先輩、後輩、同期を問わず、ひとりひとり尊敬すべき点があり、本当に日々勉強させてもらえた。この部活動を通じて得た経験や知識、出会いは何にも代えがたい私の一生の宝であり、今後の人生でも大切にしていきたい。
最後になりましたが、コート内外において叱咤激励ならびに多くのご支援をいただいたOB・OGの皆様、ゆとり世代の典型例のような私に対して優しく、そして時に厳しく接していただいた先輩方、気難しい性格の私を受け入れ、外面ばかり良い主将を支えてくれた同期の4人、こんな先輩を慕って声をかけてくれた後輩たち、そして部活動を通じて私に関わってくださったすべての方々に、心より感謝申し上げます。今後ともご指導・ご鞭撻のほど、どうぞ宜しくお願い致します。