台湾随想

20212

1995年卒 小林成彦

 寒さも峠を越えた1月の夕暮れ、柔らかい暖かな陽射しで目を覚まし、車窓から眺める田園風景にどことなく懐かしさがこみ上げる。20205月、NHKドラマ『路』(原作:吉田修一)でも話題になった台湾新幹線、2007年日本の技術の粋を結集して開業に漕ぎ着けた台湾高速鉄道は、台北―高雄間を約100分で運行、東京―名古屋間と略同距離で、車窓から眺める風景は静岡県を走行中に眺める風景に重なる。ドラマの主人公、多田春香(波留)とエリック(アーロン)の運命的な出会いと再会、台湾は世界一親日と形容されることが多いが、台湾新幹線、そしてこの二人の物語は、日本―台湾の固い絆の象徴と言える。‟親日の台湾“、その程度の浅はかな知識で台湾へ足を踏み入れた20195月から2年近く、仕事は銀行での日系企業及び非日系企業営業の統括である。この短い駐在期間にも米中貿易摩擦の激化と覇権争い、香港民主化運動と国家安全法施行、蔡総統の再選、そしてCOVID19と劇的な変化に晒されてきた。政治や歴史等難題が降りかかる東アジア地域ではあるが、自分には難しいことを論ずる知識も経験も不足しているので、ビジネスそして日常生活を通じて感じたこと・考えたことを以下7つの切り口で現場の目線からお伝えしたい。

1.コロナへの対応 2.エネルギー政策 3.台湾企業の動態 4.金融ビジネス 5.台湾での日常  6.台湾如水会  7.軟式テニス

 

 

1.コロナへの対応 ~過去の教訓を生かした徹底した封込め~

 20201月×日、正月気分も抜けきれぬ頃、オフィスビル1階入り口の半数が突如封鎖、検温・マスク着用が義務化された。近隣の新光三越百貨店も出入口の1ヶ所を除き閉鎖、消毒液も常備された。武漢でのウィルス発生の第一報が流れたかどうかのタイミングである。「何だ、何だ?」という派遣職員の反応も、台湾人スタッフは当然という反応。衛生福利部(厚労省に相当)が矢継ぎ早に防疫対策を講じたのである。2003SARS76名の死者を出した苦い経験があり、平時から緊急時対応策を決めてきた証左でもある。3月、一日当たりの感染者数が10名を超えると、4月からは鉄道・バス等の公共交通でのマスク着用が義務付けられ、違反した場合、53千円相当の罰金が科せられることになった。実際、地下鉄各駅改札には監視員が立ち、マスクを鼻の下に下げているだけで厳重注意を受けた。また、マスク供給が逼迫したことから、衛生福利部が配給枚数を管理、14日間で10枚という上限を設け、薬局の在庫状況もオンラインで見える化を実施する等ITを駆使して迅速な対応が取られた。当行(SMBC)は台湾に1拠点のみで万が一感染者が出た場合、業務継続に支障を来すことから、4月からスピリットオペレーションを実施、毎日、バスで1時間程揺られ、コンビニ1つない郊外のオフィスへ自作の弁当持参で勤務した。お陰で、料理の腕前だけはプロ級!?に。幸い5月には感染者ゼロの日が続いた為、有事対応を終えメインオフィスに戻ることができた。以降、数カ月台湾の域内感染はゼロが継続、台湾域内であれば移動の制限も受けられず、平穏な日常を過ごすことが出来ている。政府の対応で一番印象的なのが、衛生福利部の陳時中指揮官が毎日記者会見を開き、平易な言葉で台湾の人々にメッセージを発信し続けたことであった。

 

 

2.エネルギー政策 ~洋上風力を核とした再生可能エネルギー拡大への取組み~

 蔡政権は「持続可能なエネルギー政策」を推進し、2016年実績で発電容量に占める割合が10.4%の原子力発電の割合を2025年にゼロとし、一方、再生可能エネルギーを9.5%から20%へ引き上げる野心的な目標の達成を目指している。中でも、台湾海峡に高い風力発電ポテンシャルを持つエリアが多数存在することから、洋上風力だけで310億米ドルの投資がなされ、2万人の雇用が創出されるとの試算もある。建設コンサルティング会社4C Offshore2014年に発表したレポート「23年間平均風速観測」によると、全世界で風速の最も早い、即ち、風力発電のポテンシャルが高い20ヶ所の内16ヶ所が台湾海峡に位置する。現状開発を担うのは、デンマークやドイツ、シンガポール、カナダといった外国企業であるが、建設事業への発注や製品・部品調達の際に台湾企業を採用することを課し、裾野産業の育成に取り組んでいる。外国の優れた技術に倣い、それを内製化して一大産業へ仕立てていく強かな戦略である。

 

 

3.台湾企業の動態 

 

⑴米中の結節点としての台湾

台湾でビジネスをしていて第一に実感するのが、台湾企業は米中摩擦の狭間にありながら、ビジネスレベルでは両国と非常に上手く渡り歩いていて、実利第一で強かに生きているということである。鴻海精密工業に代表される台湾の電子機器受託生産(EMS)は、1990年代に大挙して進出した中国本土の工場でiPhoneiPad、ノートパソコン等を製造し、これを梃に大きな成長を遂げてきた。昨今では、中国政府の優遇策期限到来に加え、人件費高騰も重なり、ベトナム・インドネシア・インド等への生産移管を進めるが、既存の生産設備をラックスシェア等中国企業へ売却することにも躊躇がない。そして、EVの分野では積極的に台湾―中国企業が手を組む。

 

一方、台湾―米国の関係では、半導体製造のTSMC、総合化学の台湾プラスチックグループ、鴻海がトランプ前政権からの誘致もあり、各々1兆円規模の米国への投資が報じられているばかりでなく、米国のマイクロソフトやグーグル等IT企業が台湾へデータセンター設立で大規模な投資を決め、双方向での結びつきが強い。正に、台湾は中国と米国の産業の結節点になっている。

 

⑵台湾、そして世界を牽引するTSMCの半導体ビジネス

台湾経済を牽引するエレクトロニクス産業、とりわけ半導体分野におけるTSMCは今や世界経済の趨勢を左右するまでの圧倒的存在感を誇る。足許では、5G投資に加え、新型コロナの影響による在宅勤務増加でパソコンやサーバー需要が膨らみ、フル生産体制の中、車載用半導体の発注に十分応えることができず、各国政府がTSMCへ増産要請を行っている。微細化技術で世界最先端を行き、受託生産世界シェア5割強、時価総額は60兆円を超え、世界トップ10入りを果たしている。台湾に拠点を構える日系半導体メーカーの多くは、このTSMCを頂点としたサプライチェーンで重要な役割を果たしており、別の言い方をすれば、TSMCの趨勢で自社の投資計画・業績が決まる。米国アリゾナへの1兆円投資計画、そして、茨城県つくば市への開発拠点新設と正に飛ぶ鳥を落とす勢いである。ただ、TSMCの成長を目の当たりにすると些か複雑な心境にならざるを得ない。半導体と言えばかつての日本のお家芸、NEC、東芝、日立製作所が上位独占していたが、米国との激しい半導体を巡る貿易摩擦の結果、1986年「日米半導体協定」が締結され、日本の半導体産業は高関税に苦しみ価格競争力低下の入り口に立たされた。加えて、米国半導体企業は、当時主流であった、設計から製造まで一気通貫で行う「垂直統合モデル」から、設計開発に特化し、生産はアジア企業に委託する「水平分業モデル」へ志向し始めた頃であった。TSMCの創業は、半導体協定締結翌年の1987年、失われた30年と言われる平成日本経済の前夜であった。

 

⑶加速する日台企業連携

 最後に言及したいのが日本企業―台湾企業連携の動きである。日本企業が海外事業展開を行う際、進出市場でパートナーと合弁でビジネスを展開することが多いが、台湾にも数多くの日台合弁企業が存在する。2016年の鴻海によるシャープ買収に続き最近は、キオクシアHDによる台湾電子機器メーカーからの記憶装置ソリッド・ステート・ドライブ(SSD)事業買収やパナソニックによる半導体事業の台湾ヌヴォトン・テクノロジーへの売却等踏み込んだ日台連携の動きが顕在化しつつある。

 

以上、台湾企業のビジネストレンドを3つの側面から整理したが、何れにも共通しているのが台湾企業はグローバル市場の中で勝ち残るために内部成長だけに囚われず、必要なリソースは手段も厭わず外部から調達するオープンマインドを以って、且つ、物凄いスピードで実行してくるという点である。換言すれば、実利主義の立場に立ち、無用な衝突は避け、ポジショニング(立ち位置)の取り方が絶妙、とても強かに戦略を実行する。翻って日本はどうか。ここに居ると否が応にも自身を相対化して考えざるを得ない。

さて、洋上風力への取組み、台湾企業の活発な企業活動と述べてくると、さぞかし台湾はダイナミックなビジネス環境で、金融機関にとって宝の山と「誤解」を招く恐れがあるので、それを正すと同時に台湾での金融ビジネスについて感じているところを申し上げたい。

 

 

4.金融ビジネス ~オーバーバンキングと厳しい規制~

 台湾における金融ビジネスの特徴はオーバーバンキングと厳格な金融規制に尽きると言っても過言ではない。

 面積36千㎢と九州より若干狭く、人口2,360万人と日本の19%、名目GDP6,050億ドルと同12%の台湾には、地場の銀行が37行存在、外資系銀行29行と合わせ、計66行が日々凌ぎを削っている。大手台湾企業になると20乃至30の金融機関から資金調達している企業も珍しくない。それ故、台湾では直接金融が発達せず、間接金融への依存が高い。貸出・預金両面における銀行間競争は凄まじく、台湾でリテール業務を行っていない邦銀は、台湾ドルでのビジネスになると地場銀行には到底歯が立たない。例え排他的にアーリーステージから提案を実施していても、最後は単なる条件競争に終始するケースが多く、歯がゆい思いをすることが間々ある。他方、金融規制については、マイナー通貨に係る規制に加え、オフショアからのサービス提供に関する厳格な規制もあり、提供可能な金融サービスのラインナップも限られる。従って、台湾で金融ビジネスを行う場合、誰に何を提供するか、ポジショニングの取り方が殊更問われる。

 1990年代後半、日本の金融大再編の只中に身を置いた者としては、金融再編が起こらない姿に特異性を感じる。金融当局も日本で起きた金融再編には強い関心を持ち、問題意識はあるようだが、台湾ではオーナー系コングロマリット企業がグループ内に金融機関を内包しているケースも少なくなく、市場原理に基づいた再編が進まない要因の一つになっているようだ。

 

 

5.台湾での日常 ~儀式を乗り越えた先の固い絆~

 台湾の人は親切とよく言われるが、これは120%正しい。例えば、タクシーに乗車、行先の発音が拙くて目的地が正しく伝わらず右往左往した場合、運転手さんから自発的に値引きをしてくれることが少なくない。また、買い物やレストランで拙い英語で話をしていると綺麗な日本語で返してくることがよくある。SansanCMではないが、「最初から(日本語できると)言ってよ~」と思う程である。そんな心優しい台湾人も年に1回箍を外す。「尾牙(ウェイヤー)」と言われる忘年会である。これぞ中華圏のアルコールの世界で、高梁(カオリャン)と呼ばれる58度のアルコール(ほぼ薬品)、カバランウイスキー(台湾産で人気)、赤ワインを抱え込んで、日本人上司を潰しにかかる。自分も標的になり、初年度は3回途中でノックアウト、生還まで48時間を要した。2年目は葡萄ジュースを上手く混ぜ、何とか判定負けまで持ち込んだ。ただ、この「儀式」を乗り越えた後の台湾人との絆は何ものにも代え難い。

 話は変わるが、台湾ではどことなく懐かしい昭和の日本の面影に出くわすことが間々ある。とりわけ、南部の台南、高雄はその色彩が強い。写真の台北所在の総統府は1919年竣工されたがまるで東京駅である。東京駅を設計した建築家・辰野金吾氏の弟子が設計しているからである。また、隣接する台湾銀行(政府系金融機関)は、中に入るとまるで日本橋の三井本館である。

また、野球も日本同様盛んである。オリエント・エクスプレスと呼ばれた西武ライオンズの郭泰源氏、ストッパーとして中日ドラゴンズで活躍した郭源治氏、クロマティの代役で救世主として登場した読売ジャイアンツの呂明賜氏、台湾プロ野球で晩年活躍した西武ライオンズの渡辺久信氏等、日本と台湾での人材交流も昔から盛んである。とりわけ昨年は楽天が台湾プロ野球へ参入、写真は本拠地の桃園国際野球場試合前ベンチからの風景で、天然芝がとても綺麗である。スタンドではお好み焼きにたこ焼き、そして焼きそばにビールと此処はさながら日本である。試合は兎角乱打戦で試合時間は4時間に及ぶことも珍しくない。いかんせん先頭打者から7番までが3割バッター、特に中核は35分を超える高打率。裏返せば、日本球界の投手の繊細なコントロールが際立つ。今年はボストンレッドソックスで活躍した田沢投手が台湾プロ野球チーム・味全ドラゴンズへ加入、楽しみが一つ増えた。

 

 

6.如水会 ~圧倒的多数の台湾人留学生~

 台湾にも1959年設立の如水会台湾支部がある。シンガポールの如水会では100名程度の卒業生が集まる賑やかな場であったのに対し、台湾は10-20名程度と非常にアットホームな雰囲気である。特徴的なのが参加者の半数以上が台湾からの元留学生であり、台湾社会について様々な話を聞かせて頂く良い機会である。名簿を確認すると如水会台湾支部のメンバーは総勢260名、内240名が台湾からの元留学生が占める。こんなところにも、日本―台湾の紐帯の強さが伺える。

 

 

7.軟式テニス ~台湾プレーヤーとの心の触れ合い~

 最後に語るべきはやはり軟式テニス。卒業後も断続的に続けてきた軟式テニスを幸いなことに地元の方とプレーする機会に恵まれている。異国の地でプレーができる喜びは一入である。

 

台湾での軟式テニスとの出会いは、偶然の産物であった。台湾ナショナルチーㇺが強豪であることは説明を要しないが、やはり台湾でも軟式テニスはマイナースポーツ、殊に台北では競技者を見たことがない。古き良き日本の面影が残る南部、台南・高雄には競技者が存在すると聞いていた。赴任から1年が経過した頃、上達しないゴルフに飽き飽きとして、偶々他社で台北に赴任していた高校時代の友人と軟式テニスを再開した。或る早朝、2人で乱打をしていると恰幅が良く優しそうな台湾人の張さんが犬の散歩の途中、親しげに声を掛けて来た。「軟式のボールを打つ心地良い音が遠くから聞こえてきたから、慌てて来たんだよ。台北で軟式のボールを打つ音を聞くことはないからね」と。聞くに張さん、台湾軟式テニス連盟の役員をされている方で、日本へも一団を連れて試合に行っているらしい。御年60代、日本の軟式テニス事情に驚くほど精通していて、一世を風靡した「中堀・高川組」がどうのこうのと滔々と語り始め、こんなニッチな話を台湾の方としていること自体に不思議な感覚を覚えた。「仲間が台北市隣接の新北市で毎週末練習しているから是非来ないか」という誘いを頂き、台湾での軟式テニス生活がスタートした。プレーする仲間は60代が中心、中小企業オーナーや会社勤めをリタイヤされた方で若い頃は相当腕を鳴らした強者揃い、中には1985年に名古屋で開催された世界選手権団体・個人チャンピオンの劉宏祐氏(前衛)も居て、極めてハイレベルな集団。劉氏には一度挑戦させて頂いたが、忍者のような素早い動きと巧みな面裁きで、呆然とするしかなかった。台湾プレーヤーに対して総じて感じるのは後衛の球持ちが良く、とりわけ中ロブの使い方が上手いことである。そして、掛け声の所々に日本語が入る発見も。例えば2-3のカウントで「バンカイ!」と台湾の方が発した時には驚愕した。これも日本の誇る軟式テニスが国境を越えて文化として伝播している証左かと。ただ、やはり軟式テニスプレーヤーは減少傾向にあり、特に若年層へ裾野が広がらないことを張さんは嘆いている。台湾では、高校生になると勉学に進む人間とスポーツに進む人間がハッキリ分かれると聞く。激しい受験競争が故に、スポーツの道へ進む学生は限られ、そもそも文武両道という概念が浸透していないらしい。翻って一橋大学軟式テニス部はどうか。少なくとも高校時代までは!?文武両道を地で行っていた学生の集まりであり、少し誇らしく思うのであった。

 

台湾での生活も間もなく2年になろうとしています。「親日の台湾」という表現だけでは到底語りつくせぬ「台湾の幅と深み」を皆さまに少しでもお伝えできればと思い、取り留めのないことを書き綴らせて頂きました。最後に、何事にも代えがたい経験をさせて頂いているのも、偏に心暖かい台湾の皆さんのお陰であり、この場を借りて、心から感謝を申し上げたいと存じます。そして、球朋会の皆さまとは、再び、国立でプレーできる日を心待ちにしております。拙文にて失礼致しました。

(台湾北部淡水から眺める夕焼け、言葉にならない美しさです)

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