98年卒 広岡真生
週末のHER‐SYS入力応援業務で、帰宅が0時近かったこともあって、なんとなく朝から体が重い。火曜8:45、定例のコロナ連携会議が13階の会議室ではじまった。
まず感染衛生課長が口火を切る。
「昨日の感染研究所による検査結果は、245検体中53検体が陽性、陽性率は21.6%でした。これに民間検査所の結果1,551件を加えた、1,604件が本市の陽性患者発生件数となります。ここ2週間は1,000件を超えるペースが続いており、とりわけこの数日は、市内医療機関から提出される発生届の処理が追いついていません。昨日も日付が変わるタイミングでようやくHER‐SYS(ハーシス。新型コロナウイルス感染者の情報一元管理システムの略称)への入力が完了したような状況で、他局からの応援体制をさらに強化していただかないと…。」
医療担当部長がたまりかねた様子で口をはさむ、「人事課にはこの状況は伝わっているの?福祉医療局だけでは応援体制が組めなくなることは、デルタ株の経験で分かり切っていたはずじゃないか。いつまで他人事なんだよ、ったく。」
次いで、療養調整課長からの報告。
「お手元の資料をご覧ください。昨日の県対策本部会議で示された『自主療養のあり方について』です。オミクロン株による第6波の影響で、発熱外来に加え救急搬送についても逼迫の度合いが高まっています。軽症の患者は、本人のセルフテストの陽性判明時点から即座に療養開始となります。これにより限られた医療資源を、中等証・重症患者に振り向けることが可能となります。SpO2値(血中酸素飽和度)95以下や人工透析など重症化リスク因子のある患者を、重点観察対象者として優先的にフォローアップする体制を組むことが可能となります。本日夕方の知事記者会見で公表し、明日からスタートします。」
「つぎ、福祉施設のクラスターの発生状況」
「高齢・障害課です。高齢者施設のクラスターは計15か所、うち2か所は既に経過観察期間を過ぎておりますので、現時点では13施設となります。障害者入所施設は昨日報告が来た希望の里で3か所目で、こちらは入居者のワクチン接種率が65%と、ほかの施設に比べて低めです。」
「その他、病院連携班、在宅医療班からは何かある?」
「はい、病院連携班ですが、感染症指定医療機関にもなっているA病院なんですが、看護師などの病院スタッフがかなり逼迫してきているようで、今週から一部外来を閉鎖するとのことです。一週間程度の見込みと聞いています。」
「わかった、他には?無いようならばこれで終わろう。次回も火曜の同じ時間で」
会議室から出ると、ちょうどこちらに向かってくる職員と鉢合わせた。
「ああ、平岡さん、保健所長がちょっと来てもらいたいって。なんだかちょっとお冠です」
「何だろう、わかったすぐ行く」
「ああ、それからG先生からお電話がありました。こちらは時間があるときに折り返しが欲しいそうです。」
定例会議の資料を小脇に抱え、所長室の開いたままのドアをノックしようと手をかけると、すでに先客がいて何やら打ち合わせ中の様子だった。一昨年の2月ころからだろうか、所長室の扉は常時解放されるようになって、閉まっているのを見たことがない。それにしてもうちの保健所長は本当によく働く。市の医師会との調整から、病院協会との会合、県の医療統括官からの要請があればいつなんどきでもzoomの会議が入る。加えて市長への報告や、市議会議員へのご説明、最近は庁内の応援体制を組むために人事部長のところにもよく出かけている。だれだよ、保健所長なんて臨床も研究もできない不人気職だから、一番できの悪い奴が仕方なくやっているなんて馬鹿にしてたのは…。
気づくと、前の打ち合わせは終わったようで、
「平岡さん、入って、入って。」
「すみません、お呼びでしょうか?」
「ああ、在宅療養者の搬送車両だけど、2台ほど増やせませんか。デルタ株の時は入院対象だった人工透析患者が、在宅療養にカテゴライズされたでしょ、あれで病院への搬送車両が足りなくなってね」
「ええ、その件は民間救急の担当者からも連絡が入っています。ただ、ドライバーもほとんど休みなく働いてもらっているせいか、疲れてきています。救急車が受けられない案件が、相当数回ってきていますから。ちょっと社長に掛け合ってみますが。」
「ああ、お願いします。」
民間救急とは、もともと救急車の対象とならない感染症や精神病の案件を、保健所からの要請で運んでくれる会社で、かなり専門性の高い業務も請け負う。感染対策をしつつの緊張を強いられる業務であることもあって、一回の出動で10万円超と値段も高めの設定だ。社長がなんとか車を回してくれたとしても、また、予算流用の協議が必要になる。財政局にお願いしなければならない。また一つ仕事が増えた。
自席に戻ると、PCのディスプレイに伝言メモが何枚もはってあって、どれもG議員からのものだった。「いつでもいいですから」なんて言って、その実、すぐに連絡を入れないと機嫌が悪くなる。
「G先生でいらっしゃいますか、健康医療局危機管理担当の平岡です。何度もお電話いただいて、申し訳ございません。」
「いやいや、お忙しいところ申し訳ない。例のあの件、その後どうですか」
「とおっしゃいますと」
「いやだなあ、忘れてもらっちゃ困りますよ。台風直撃時のシミュレーション。9月の議会では、年内には在宅療養者の避難シミュレーションをやるって約束していただきましたよねぇ?あれですよ。」
「ええもちろん、忘れたわけではありません。避難シミュレーションについては、現在準備を進めているところでございまして、来月早々には実施の予定で進めてきているところです。ただなにぶん、感染状況がこのような状態になってまいりまして、少々時間がかかっているところでございます」
「第6波がいずれ来ることはわかっていたことじゃないですか!それをオミクロン株のせいにして、後回しにするわけですね。ことは市民の命にかかわることですよ!この前だって震度5の地震があったばかりじゃないですか。次の議会では徹底的にやらせてもらいますから!」
ガチャン!言い終わると同時に電話は切れた。
保健所は今、圧倒的に人手が足りていない。
1994年の法改正を契機に、全国の保健所の数はピーク時の半分まで落ち込んだ。行財政改革でやり玉に挙げられ、公衆衛生は「役割を終えた」とまで言われてきた。確かに乳幼児の死亡率は下がり、結核を代表とする感染症も以前ほど恐ろしい病気ではなくなった。そのため、保健所の職員数は毎年のように削減対象とされてきのである。
また感染症患者の受け入れ先である公立病院も、その病床数を減らしてきた。感染症病床を持つ感染症指定医療機関は、多くが公立病院であり、慢性的な赤字体質が批判されてきた。そうして長らく批判を受け続けてきた公立病院こそが、現在、コロナ禍における治療の最前線を担っているのである。
それにしても、公衆衛生や感染症対策とは、どの程度の射程で視座を定めておくべきなのだろうか。「危機管理」なんて言うけれど、そもそも「危機」なんて「管理」できる類のものなのだろうか?自らの肩書にすら毒づきたくなるのは、やっぱりちょっと疲れているのかもしれない(つづく)。
※ 登場する自治体や職員は、いくつかの都市の典型的な状況を組み合わせた架空のものです。