平成元年卒 佐藤 功一
今年の秋田は平年の2.5倍も雪が積もり、毎日、朝晩、雪かきに勤しんでいます。
平成元年に卒業して秋田県庁に入庁して33年。一橋大学では珍しい地方公務員の道を選択し、故郷に戻ったわけですが、改めて振り返ってみると、観光関係15年、教育関係8年と一般的な県職員とはちょっと離れたルートを歩んできた。
秋田新幹線こまちの開業間近の平成5年から6年にかけて、当時の運輸省鉄道局に出向し、「第1回鉄道の日」のイベントを立ち上げた。このイベントに携わったことが、後に観光が長くなるきっかけになったと思う。
観光で担当したのは、まずは県営のホテル建設、リニューアル。当時はバブルの名残があり、リゾート開発の流れで県内に4つほど整備した。お薦めは「十和田ホテル」。1940年の幻の東京オリンピックの前に外国人観光客を受け入れるために開業した天然秋田杉で作られた登録有形文化財のホテルは圧巻です。
その後、公営企業の水族館と宿泊施設の経営にも関わった、赤字経営であったので、二つの施設の店仕舞いも経験した。他には、ドラマの誘致。深夜の撮影まで立ち会い、人が足りなく医師役としてちょっとだけ出演も。よもや公務員になってドラマに出るとは……。
教育関係では、秋田県立大学、国際教養大学の県内に二つある公立大学に出向し、カリキュラムの改正から、学生の対応、入試にまで関わった。国際教養大学は、授業はすべて英語、1年間留学必須など特色のある大学で、今では一橋大学をもしのぐ難関大学。当然、大学事務局でも英語力が必要になる訳だが、秋田に戻ってから秋田弁の環境下にあった私にとっては、自分の不勉強さに後悔。
国際教養大学の後半からは、コロナ対策に奔走。出向時には秋田県内で新型コロナウイルスの感染者は出ていなかったが、学生の9割以上が学内の寮かアパートに住んでいる環境のため、ひとたび感染者がでると大規模クラスターにつながりかねないこともあり、対応に苦慮した。結果的には、在籍時には一人も感染者を出さずにホッとした。
出向明けには再び観光文化スポーツ部に戻り、今度は、経済対策でGoToトラベルや県民向けのプレミアム宿泊券の発行。幸いにも秋田県は人口当たりの感染者数も少なく、いわゆるマイクロツーリズムにより、多くの県民に県内旅行してもらった。都会と違い、高齢者が多く、医療体制がたいへん脆弱な地方(秋田県内の最大病床数289床、うち重症向け24床)にとって、感染拡大を阻止することは、最重要課題。しかしながら、経済を回して、事業継続の下支えをしていかなければ、コロナが収束した後には、県内にホテル、旅館がなくなってしまうことにもなりかねない。政策のブレーキとアクセルの難しさを感じている今日この頃です。
オミクロン株が猛威をふるい、全国的に感染が広がり、収束の見通しも立たない状況ですが、コロナが落ち着き、GoToトラベルが再開しましたら、ぜひ秋田にお越しください。「なまはげ」がお待ちしております。
最後に、秋田に戻ってからのソフトテニスについて。
運輸省出向時には、国立のコートに足を運んでいたが、秋田に戻ってからは、大会にスポット参戦する程度。それでも、秋田県庁チームで、一度、全日本実業団に出場。一コ下の中野君が秋田で行われた東日本選手権に出場した際には、「なまはげ」の装束を着て応援。その後、しばらくコートを離れていたが、長女がソフトテニスを始めることになり、体が動くうちに見せてやろうと、8年振りに全日本実業団県予選に出場。しかし、第1試合でゲームカウント3-1でリードしているところで、レシーブをして一歩踏み込んだ瞬間にアキレス腱を断裂し、途中棄権。結果、チームは1ゲーム差で全日本出場を逃し、私は、娘に勇姿をみせることなく、そのまま引退。その後は、娘の練習に付き合う程度。今ではその長女もテニスから離れたので、テニスコートに何年も足を運んでいません。
コロナが落ち着けば、国立のコートに顔を出したいと思います。体が動くかわかりませんが、その時には、皆様お手合わせお願いします。