川上哲郎先輩の想い出

松山雅胤(S52年卒)

 私のような若輩者が、川上先輩は私が生まれた年の前年に大学を卒業されているので、想い出という文を寄稿させていただくのもはばかれる大先達ですが、住友電気工業株式会社(以下住友電工)の後輩ということで、なにか書きなさいということでしたので、できるだけのことを記述させていただきます。

 私が住友電工に入社しましたのは1977年(S52年)でしたので、川上先輩が常務になる前年で取締役のときでした。私はたまたま経理に配属され川上先輩も経理担当役員でしたが、新人などがお目にかかる機会はほとんどありませんでしたが、経理の新人研修第一日目に10人ほどの会議室に入ってこられ、人懐っこい笑顔でお話をされたことを覚えています。そのときにどんなお話をされたか、残念ながら覚えていませんが、「これから頑張ってください。ねえ、松山君」と、特に私に声をかけていただきましたが、慌てた私は「ハァ」という呆けた返事をしてしまったことを、後悔の念を持ちながら懐かしく思いだします。

経理では伝統的に工場経理にまず配属され、現場経理をしっかり学ぶことになっていましたので、私も例に漏れず住友電工発祥の地である大阪春日出の工場で4年ほど勉強させていただきました。その後色々な部署を経て資金課というところに配属されました。資金課は川上先輩が新設された部署で、初代の課長も川上先輩でした。

資金課は全社の資金(含現金)を一括管理するところで、収支計画立案・実績収集、現預金管理((含外貨)入金・出金)、資金調達(社債等発行)・資金運用などという、会社の資金に関することを全て統括する部署ですので、銀行・証券会社等の金融機関との窓口でもありました。住友電工は資金繰りが悪い時代が長く続いており、これを抜本的に改善するため、資金課を川上先輩が創設したと聞いています。私が配属された当時はバブルの時代で、多くの会社が株等の金融商品に多額の資金を投入し、ともすると本業の利益額を上回るほどの金融利益を計上しており、それがもてはやされる時代でした。当然資金課にも多くの商談が持ち込まれており、役員の間でも金融商品投資をして利益を得る好機であると、当時の川上社長に提案していました。しかしながら川上先輩は断固としてこれを排除していました。

住友事業精神の「浮利を追わず(不趨浮利(ふすうふり)」という考え方もありますが、住友グループの中でも大きく投資をしていた会社もありましたので、これだけではなく川上先輩個人として「企業はその本業で勝負をしなければならない」という信念をもっているということを聞いており、特に資金課には、絶対にリスクの高い金融商品に手をだしてはならないと厳命されていました。周りがほぼ全員一つの方向に向いているときに、多くの従業員の生活を支える社長が反対方向を向き、ひたすら本業への研究投資を続けていたわけですが、サラリーマンをしていると理解できると思いますが、おのれの信念を貫くには、大変強固な意思が必要です。しかも上にいけばいくほどプレッシャーも強くなるので、大変です。ご存じのようにその後バブルが弾け、多くの企業で特別損失が噴出したことはご存じの通りです。住友電工は金融商品の利益計上が少なかった代わりに、バブルの損失もありませんでした。特別損失を計上する場合には、多くの場合人的な責任論も伴うため、サラリーマンとして大きな苦痛を伴うものですが、住友電工に努めていて良かったと思った瞬間でした。

川上先輩は商学部の古川栄一先生(S60年没)の優秀なゼミ生でした。生前は多くのゼミのようにOB会(以後古川会)が開催されていましたが、死後いつの頃からか開催されなくなっていました。ゼミ生の一人に当時フェリス女学院理事長で会計学者、第5代会計研究学会会長も務められた中島省吾先生(S22年卒)がおられますが、ちょうど川上先輩が関経連会長に就任されたころ、川上先輩に手紙を出されました。「川上君の力で古川会をぜひ再開催してもらえないか」という、強い要請が書かれていました。これになんとか応えたいというお気持ちから、同じ古川ゼミ生で住友電工に入社していた伊藤進一郎専務(S35年卒)とご相談され、伊藤専務が会の相談役となり古川会の再開催をすることになりました。当時伊藤専務は経理担当でしたので、直属の部下である私(経済学部・永原ゼミ)に白羽の矢を立てられ、その後12年間古川会の運営の裏方をさせていただきました。最初はOBの名簿もありませんし、連絡手段もなく、開催資金もない、実際に動ける人間は私一人という状態でしたが、なんとか色々整備を進め、毎年古川会を開催することができました。

もちろん古川会の会長は川上先輩にお願いしました。毎年出席され心に残る含蓄のあるお話や、歴史の裏側のようなお話をお聞きでき、皆さんいつも聞き入っておられました。一方、古川会の開催にあたって大変苦労しているということをよく理解していただいており、古川会でお会いすると「松山君いつもありがとう」と入社20年以上経っているのに、名前を憶えてお声をかけていただき、恐縮したことを覚えています。

今回の訃報にあたりましては、事務局に入っていただき一緒に古川会の催し等の立案をしていただいた、新日鐵副社長で初代の東日本高速道路会長だった八木重二郎先輩(S40年卒)、鴻池運輸会長の辻卓史先輩(S41年卒)に急ぎご連絡をさせていただきましたが、大変驚いておられましたし、残念という感想でした。謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。

 

 

以上