昭和51年卒 鈴木成次
1986年9月、第2回関西財界訪中団が当時の中国トップ鄧小平との会談をハイライトに約1週間、北京、上海を訪問しました。団長は関経連会長の住友金属・日向さん。副団長は大阪商工会議所会頭のサントリー・佐治さん、大阪工業会会長のクボタ・廣さん、関西生産性本部会長の住友金属・乾さん、そしてこれらの70代、80代の関西の重鎮と共に、関西経営者協会会長の住友電工・川上さんも若干57才で副団長として参加しました。
関西財界は田中首相の電撃訪中の1年前に既に第1回の訪中を果たし、周恩来総理と会談、日中国交回復の露払いをしています。その15周年を記念した2回目の訪中団でした。
1986年当時、住友金属入社10年目の私は秘書課で勤務、乾元社長の担当であったため、カバン持ちとして訪中団に参加しました。住友金属は会長の日向さんが団長ということもあり、スタッフ、秘書、合計10人程度が同行しましたが、川上さんは住友電工から
ただ1人で来られていました。それまで関西財界の会合で遠くから拝見はしていましたが、その時初めて球朋会の後輩として会話を交わしました。合間に私の持参していた住友金属作成の中国最新事情の資料に目を留められしばらく読まれていました。その後の中国側との会談の際に、その資料の数字を使われ当意即妙に中国首脳と話される川上さんの堂々とした態度に深く感動しました。自社他社多くのトップを近くで見てきましたが、手許原稿
なく自由に議論できる人は案外少なく、当時の川上さんは関西ではピカイチであり球朋会の先輩として非常に誇りに思えたものです。帰国後は会合等でお目にかかると、しっかりと名前を呼ばれ話しかけていただきました。
住友電工では亀井前社長から大抜擢で50代初めで社長就任。関経連では宇野前会長からの同じく大抜擢で60代初めで会長就任。温厚な外見、お人柄でありながらその頭脳明晰さはどの組織でも際立たれていたのでしょう。当然、妬み嫉妬による反発や軋轢はあったと思いますが、そのひょうひょうたる態度からは全く感じとることができませんでした。
関経連会長となっても自社に補佐の専任組織をつくらなかったのも川上さんらしかったと思います。住友金属や関西電力では10人以上の専任組織を作っていましたが、経済団体トップを受ける場合でも会社には一切負担を掛けないという川上さんの姿勢は見事でした。
尚、1997年4月には、関経連会長となった川上さんが団長となって、第4回訪中団を率いて李鵬総理と会談しています。
そんな球朋会の誇るべき大先輩のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
以上