福永家ご家族様
杉並区高井戸東一丁目三十二番二十三号
竺 原 一 博
(じくはら)
福永 徹君 を 偲んで 。
染井吉野が散り、若葉が目に鮮やかな頃となりまして、気候的にはさわやかですがいろいろな思い出も心に浮かんでまいります。
入学の時、卒業の時などの思い出に加えて、私の場合一橋大学を卒業して入社した鹿島建設にて仕事に対応できず二ヶ月で退社をして浪人生活に入った苦い思いが浮かびます。
福永徹君は昨年の五月二十七日に亡くなられてしまったことを伺い、今年からはこの季節は、あまりにも早く私どもの世界から旅立ってしまわれた福永君のことが偲ばれる季節になると思われます。
突然お便りを差し上げますが、私は一橋大学を昭和四十八年に卒業いたしました竺原と申します。大学時代は軟式庭球部にどっぷりとつかり、雨の日の麻雀以外は毎日国立の東側のテニスコ-トにおりました。
昨年末にいつものように徹君あてに年賀状を発送させていただいたところ、徹君のお母様から 私の妻にお電話をいただき 妻から、なんと徹君は平成十二年に亡くなられたと聞かされ 本当に呆然といたしました。
一橋軟庭部が出版している球朋誌の入っている封筒をあわてて開封すると、渡辺正和の「福永徹君を偲んで」という寄稿の見出しが目に飛び込んでまいりました。
悲しいお電話をいただいてから「早くご挨拶を差し上げなくては」と思うばかりで、日々の生活にかまけ、半年もたってしまいました。
本当に失礼ばかりで申し訳ありませんでした。
改めて、生前の徹君にいろいろとお世話になり、楽しい思い出、胸が熱くなる思い出が忘れられないことを申し上げさせていただくと共に、徹君に感謝を申し上げ、ご家族様には不義理をお詫びさせていただきまして、また大変に遅くなりましたがお悔やみを申し上げさせていただきます。
渡辺君の寄稿によれば、徹君は昭和46年に一浪で一橋大学に入学し、大学二年の時から軟式庭球部に入部されたということでありました。
一方私は昭和44年に二浪で入学し留年はせずに昭和48年に卒業いたしましたので、47、48年の二年間学生時代が重なっていることになります。
運動部では年齢やテニスの腕前にはかかわらず、学年にて上下関係が決まりますので昭和50年卒業の徹君に対して私は2年分いばりちらしていたことになります。きっと合宿では腰をもませたりしていたのだと思います。
昭和47年、48年というのは軟庭部は実に華やかな時代でありまして、私が47年に二浪ゆえの年の差で主将をやらせてもらい、私の同期の高校時代東京の国体選手という雲の上のような球歴の藤本と、熱血のなかの熱血漢試合中は異様な興奮状態で番狂わせを度々演じた小宮らが 中心になり、三商大戦二連覇というその頃では信じられない快挙がありました。
それまでかなり長く低迷時代が続き、部の運営もどうやって部員を動機付けするかについて悩んだ時期がウソのように、好成績が部を明るくさせ、後輩の人達も努力と「運」さえあればこんなに素晴らしい経験を共にできるのだ
--- といった盛りあがりがありました。
レギュラ-の者も控えの人も共に団体戦の美酒を味わうという美しさの一因は、あの頃我々の周りには女性が一切いなかったからではなかったかと思っています。
みんな私生活では女性とのつきあいはあったでしょうが、誰一人としてテニスの応援に彼女を連れてくるということをしなかったものですから、レギュラ-の華やかさは男共の賞賛にとどまってといるいうことが 一致団結の勝因だったと思っています。
後年、あのテニスコ-トでの大活躍を妻が目撃していたなら自分に対する尊敬も生まれただろうに
---とよく後悔したことがありました。
相手校に女性の応援がコ-トサイドにいようものなら、「おい相手には女がいるぞ」と言うだけで異様に強くなる集団でありました。
徹君にその頃やまた後年に女性とのお付き合いはあったのかなかったのかトンと耳にはさんでおりませんが、少なくともこのころは全く純粋な「硬派」であったろうと思います。
テニスは 正和がいうように 剛球でありました。 フォ-ムが実にきれいで 正和のように 変則ではなく 正統派でありました。
サ-ブもきれいに入っていたし、正和の言うように 結果には淡白だったかどうかはよく記憶していないのですが、試合中に相手を威嚇するような気合は特に激しかったことを覚えています。
軟式庭球というのは ウィンブルドンのような「テニス」ではなく、生まれは同じでも日本の風土に合わせて全く日本の伝統芸能のような位置付けだと私は思っているのですが、
試合中も「さあ来い」とか「どうしたホラ」とかの声を出しながら自分に気合を入れ、相手を威嚇するのが常態でありまして、
徹君にはそのような気合に一段とすごみがあったと記憶しております。
そのようにテニスコ-トでは「泥クサイ」感じの徹君は、コ-トを離れると打って変わって「スマ-ト」な感じになるのかどうか
------ 全くいつまでたっても 鮮烈に覚えている場面があります。
軽井沢の民宿での貧乏合宿での出来事だと思います。いつものように我々上級生がわがままを言い、何か淋しいから下級生は歌でも歌え
----- ということになったのだと思います。
皆、場所柄をわきまえ 高倉腱のヤクザものとか 同期の穴吹が「惚れた女房にミクダリハンを投げて長ドス長~の 旅」などと歌って 感動のあまり思わず全員が斉唱に加わる
----というような状況の中,
福永君は
Carpenters の Top of the World を、何のヒネリもなく きれいな声できれいに フルコ-ラス歌い上げ 皆をあぜんとさせました。
別に、バンカラな雰囲気に一石を投じようとか、いうことでなくただ自分の歌いたい歌を歌い上げたのだと思います。 それには皆で斉唱ということにはなりませんでしたが、シラケルとか場違いとかでなく皆始めはヘラヘラ笑っていたのでしたが、しばらく経つとそれぞれに思いがあったか皆シ-ンと聞き入り、そして彼の歌が終わるとまた皆思い直して演歌などに戻ったものでした。
* * *
思い出話を続けさせていただきます
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私が鹿島建設をやめ、それからまた社会復帰して、多分ぴあ㈱という会社に勤務していたときだと思います。
九時頃の夜の混雑の渋谷駅でばったり福永君に会いました。僕の知ってる店で飲みましょうよ、おごりますよ会社のお金を使えるから、というようなお誘いで連れて行ってもらった店は一体何処だったのでしょうか、思い出せませんが歌の唄えるお店でした。現在のカラオケというお店はその頃ありませんでした。そしてお店には女性がたくさんいて、
福永さんという名前が彼女達の記憶にしっかり入っていました。それからお金のかかりそうなお店でした。
まだ若いのにこんな高価な店で郵船の交際費を使えるということは、彼も順調に良いポストにいるのだろう
---という感想を持ったものでした。
彼も私も何曲も歌っていました。福永君は基本的に歌が好きだったのでしょう。
私が先輩なのにすっかりおごってもらって別れました。
* * *
次も歌の想い出です。こうして振りかえってみると福永君と音楽
(歌、といったほうがピッタリですが----)とが一緒に思い出されます。
私の結婚式に出席してもらったのでした。私は二回目の再婚の式で私の年令は
35くらいだったもので、初々しい式ではなく、妻になる人は私よりは若くて初婚で一人っ子という状況なので、きっと先方の両親は怒っているだろうし彼女にとっては始めての式なのだからチャンと形だけはつけようという感じで、
メンバ一は一橋軟式庭球部の年代を超えた集まり
----という様相でした。
司会は渡辺正和で、式の演出を考える年でもないので、スピ-チをしてくれるぴあ社の役員
(といっても皆30台の半ばでした)とか、 卒論の製作ができなかった私を実質的には提出なしのオマケで卒業させてくれた(鹿島建設の就職が決まっているのですみませんけれど卒業させてください----と頼みに伺った私を許してくれた)矢島基臣先生--------とかの人名を渡辺正和に渡しただけで、あとは正和よろしく頼む、
といって始まった式でした。
如水会館で正和ががんばってくれて順調に進行してゆき、私は事前に知らされていなかったのですが、次は福永君という紹介を聞き、ああ正和が彼にも手を回してくれたのか
----と思いながら礼服の彼を見守りました。
福永君は、祝いの言葉をかけてくれました。そして歌を唄う、という宣言の後、
お嫁サンバを歌ってくれました。それは何の替え歌でもなく、郷ひろみの歌そのものをただニコニコしながら熱唱してくれました。
そして私は、彼の歌の一節か二節かのところから、ひな壇で一人で下を向き大泣きをしていました。
他人にはきっと不思議な光景だったと思います。別にその歌にまつわるエピソ一ドが紹介されたわけではなく
(そのようなものは無いのですから)、歌詞にヒネリがあるわけで無し、何故今日、新郎と呼ばれているこのオッサンは一人で泣いているのだろう----きっと何か悪い想い出か、この歌が流れていた時に離婚した、とかしたのだろうと想像していたと私は想像していますが。
私はその時、福永君の「男の義理人情」に泣いたのでした。今日わざわざ来てくれただけでうれしかったのに、互いにこんないい年になって、まだ先輩後輩で唄ってくれるのかい。きっと、余興もなにも趣向を凝らしたわけでなく、男どもばかりの結婚式は殺風景なので、ということで歌ってくれているのだろうなあ、と思い、両親に花束とかいう時もヘラヘラしていた私は福永君の歌のときずっと泣いていました。
本当にいつもいつもいいやつでした。
我々の代は、皆50をすぎました。
20代の前半で、軟式庭球に勝った負けたがすべてだった毎日をおくっていた我々が集まると『俺達が50になるとは思わなかったなあ---』と言い合っています。
我々はまだまだ生き延びていくでしょう。そしてどんどんオジサンになり、オジイサンになり平気で老いさらばえていきます。
私はこのごろ子供の頃に歌った童謡がよく思い出されます。
(私には子供がいないので、今でも私の頃の童謡が歌われつづけているのかどうかを知りませんが---)
先日またふっと思い出した歌を口ずさんでいてびっくりしました。
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の船頭さんは 今年60のおじいさん
年は取ってもお船をこぐときは
元気一杯櫓がしなる
ほらギッチラギッチラコ
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60はおじいさんなのでした。あと8年でおじいさんか。
我々は自分達の若い頃の姿を今のオジサンの姿からさかのぼらせて
ああこいつは足が速かった----と思い出していくのですが
福永君は若い福永君のままで止まっています。
これはとても悲しいことなのだと思います。
我々がオジイサンになっていくのは非常に悲しかったのですが
福永君の悲しみに比べたら
-----比べたりすることは許されないことでありますが----
生きていることを感謝しなくてはいけないのだと思わされます。
私事といたしましては、現在の会社に中途入社以来ずっと経理部で
13年ばかりやっていたのですが、昨年の8月に経営計画室というところに移りました。
私は大学を卒業して就職したとたん社会にはじきとばされ
(今から考えると単なる五月病だったのかもしれませんが)、この先どうやって生活しようかと考えた末に、学生時代のテニス付けですっかり空になった頭脳に鞭打って、昭和50年に公認会計士の試験に通り、それ以来(本当に会計は生活のためだけでやっているので本当はあまり向いていないのですが、それでも)経理の分野でここまで参りましたので経理には土地カンがあります。だからあとは経理部でのんびりと流して生きていこうと思っていたところの人事異動であり、辟易した毎日を送っておりました。
会計士から中小企業のぴあ㈱を経て、今のオリックス㈱なのですが、当社に入ってから生来のサボリ癖で
13年やってきたツケはかなり大きく、今度は51歳の体に鞭打って、土日を除く毎日大体11時くらいまで遅れを取り戻すために書類を読み決裁をむりやり行い----の日々で、しばしば本当に遅れを取り戻せるのだろうかと弱気になり、いやそれでもやらなかったら失業するだけ---とまたただやるだけ---と心理的に追い詰められた日々の時に
福永君の訃報をうかがった次第でした。
この年になって何でこんなことをせねばならぬかとしばしば思っていましたが、活躍したくても入院を強いられ、力を発揮出来るはずなのに闘病を強いられて大変に無念であったでしょう福永君のことを考えれば、
私など土日にはゴルフなどして遊びながらの泣き言などいかほどのものか、死に場所を探すくらいの気持ちでガンバランカイとよく自分をふるいたたせます。よくふるいたたせるということは、よく怠け心が出ていると言うことですが、
少なくとも、病魔にしばられ、がんばろうにもその場を与えられなかった福永君を思えばがんばれる命を保持していることに感慨を持たなければ恥ずかしいと思うことが多いです。
それにしても本当に亡くなられてしまうと、お礼の言いようもないのですね。
亡くなられていなくても、きっとお会いすることも数回あったかどうか、そして本当に「今日は私がおごるから」とは言わなかったと思うのですが、
亡くなられると、本当に会おうにも会えないという現実に直面し、あの福永君が我々の世界、こちらの世界にはおられないのだ、と改めて思うと、表現が失礼なのかも知れませんが本当にゾッとする思いがあります。
私の書いておりますこの手紙ともいえない拙い文は、四月の最初に書き始めたものでありました。ご命日には間に合うだろうと思いながら、仕事の机上のパソコンに時間のある都度書き足して参りました。途中、面倒な仕事が入り、深夜勤務などの時期には全く遠ざかっておりました。
実は、私にとって「終わらないかも知れないなあ
---と思いながら暗中模索でやっていた仕事」が、 かなり奇跡的に昨日終了して、今日はゆるやかな日になりました。
久しぶりにパソコンを開けると、なんとご命日まであと二日が残され、何とかこのまずい文も締めくくれそうなのに気づき、あわてて書き足している次第です。
竺原さん、途中なんでしょ。たいした手紙じゃないんだから早く書きなよ
---と福永君に言われているような気がしました。
* * *
実は昨日、いままで深夜まで何日もかけて終わらなかったあの仕事が、
私にとって本当にやっかいなあの仕事が、
ふっと終わったのが不思議と言えば不思議でした。
あれは福永君が助けてくれたものだったことに今、気がつきました。
* * *
本来もっとていねいにお話をしなくてはいけないものでしたし、二ヶ月を経ていると前と後ろがつながっていないのですが、
福永君に、あとはいつでもいいから、途中のままできりがないよ、どうせならあの日に間に合わせてくださいよ
と、言われているような気がいたします。
と勝手に申し上げて、お便りさせていただきます。
福永家のご家族様。いつお墓にお参りにうかがえるか判りません。一生うかがえないかも知れません。申し訳ありません。
書き始めたときから、写真立てと一緒にお送りさせていただこうと思っておりました。
是非、思いでの写真のうちの一枚にお使いいただければと思っております。
(写真立てというのが間に合いませんでした。粗末なものしかお送りできませんが来週ゆっくり選ばせていただきます。)
いつかお会いできる日まで 失礼致します。
福永 徹 君、 ご冥福をお祈り申し上げます。