福永徹君を偲んで

50年卒 金井章男

 福永君といって思い出されるのは、やはり歌でしょうか。私は、子供のころから歌番組などというのがなければアニメや時代劇の時間が増えていいのにと思っていた人間でした。そんな私でも、青春の歌と呼ぶような、懐かしいというか、胸が熱くなるような歌があります。酒井君の「妻恋道中」、福永君の「TOP OF THE WORLD」、小宮・藤本先輩による「初恋の人に似ている」が私のベスト3です。これに渡辺正和君の司会と今週のヒットチャートが前座というのが当時の定番のような気がします。

 しかし、驚いたのは卒業後何年かして福永君の歌を聴いた時でした。彼の森信一や郷ひろみの物真似は天下一品でした。学生の時にはきれいに歌っても、そんな芸はなかったように思います。シャイで無口だった彼が、変貌を遂げたというのが私の印象でした。社会の波にもまれて身につけた前に出て行く姿勢、あるいは自己を表現しようとする努力のようなものを感じたものです。「男子三日会わざれば」とはよくいったものです。その時なぜか、今の福永、つまり物真似のできる福永だったらもっとテニスも強くなれたろうにと思ったものです。正和君がいうようにきれいだが淡白だった彼のテニス。レギュラーを目指す学内予選リーグで何度も戦ったわけですが彼も結局レギュラーを取りきれませんでした。彼にとっても私にとっても懐かしい時代でもありますが悔しい時代でもあります。私にとっては彼の変貌が全人的変化であって、時を戻せるならあの悔しい状況をも払拭できる変化というふうに私には思えたのです。

 変化という意味では、あの酒井君も同様です。彼は奥さんの実家の家業である熊取谷石材の社長を継ぎ、穴吹姓を名のっています。三井銀行を辞め転進したことだけは聞いていましたが、何年ぶりかに会いびっくりしました。私はゼネコンのサラリーマン、彼は石屋の社長ということで、まさしく彼の社長業の場面に同席することになりました。私の勤めるゼネコンの技術屋をうまくおだてながら酒席を保つ彼を見てやるもんだわいと下を巻きました。あの酒井君を知る人達にとって、妻恋道中は良い歌だったとおぼえていても、社長として接待をする場面などとても想像できないでしょう。自信のなさそうな弱気そうなイメージが残っているのではないでしょうか。酒席での彼は、あのイメージを確実に残しているのです。しかし、話をリードするのは彼であり、会話が途切れたときに話をつぐのは常に彼でした。昔のままの彼で、とにかくしゃべり続けている酒井君には脱帽せざるをえませんでした。この酒井君を見たときにも、福永君と同様、今の彼ならもっとテニスが強くなれたろうにと思ったものです。

 もう一人大きな変化を遂げたのが渡辺正和君。なんと彼のゴルフの腕前はシングルだというのです。アメリカ生活が長いといっても、ゴルフ狂いをしたといっても、シングルにはなかなか届きません。単身赴任の現地所長クラスだと、年間100日くらいやったというひとはけっこういるようですが、シングルというとまずいません。つまり、シングルになるには才能が必要なのです。彼もレギュラーを目指す予選リーグで何度も戦ったライバルでありパートナーだったりしたわけですが、レギュラーになりきれなかった一人です。私は、彼も私の同類、すなわち運動神経の鈍い人間とみなしていたのですが、どうもそうでなかったようです。あるいは、ゴルフがやたらと彼に向いているスポーツだということなのでしょうか?否、ゴルフのシングルって、テニスで考えればインカレに出場に近いぐらい凄いことのように思えます。技術の向上のためには、自分の考えた事や他人に教えられた事をやってみて、体がそのように動くところまで訓練するプロセスが必要です。また、緊張する本番場面で、その技術が出せる精神的強さも必要です。今のノウハウをもって、あの頃にもどればインカレもokのテニスが身につくということでしょうか!

 私には、彼らのようなブレークスルーにあたる進歩は起こらず、平々凡々とサラリーマンをやってきました。ただ、ほとんど毎週土、日曜日とも、硬式テニスを今でも延々とやっています。

91年からアメリカに赴任し、不動産不況に巻き込まれてどうにもならなくなった子会社のリストラという八方塞がりの状況を、精神的に救ってくれたのがテニスでした。ひたすら球を追いかけ叩いていると、国籍も、年令も、何もかも忘れてしまう。その何もかも忘れた向こうに、思い出されてくるのは、遠い日の学内予選リーグ。あの世とやらでは、ブレークスルーで変貌を遂げた福永君やら、正和やら、酒井君やら、・・・・…皆とリーグを作って戦うことになるのだろう。しばし待て、福永君!