昭和48年卒業 竺原一博
同期、潮田・尾木原・慶田・小宮
藤本理君は平成十五年十一月九日早朝に旅立ち、翌日の通夜、十一日告別式には、関先輩、岡本先輩をはじめ多くの一橋球朋会の人々が駆けつけ、皆で想いを同じく致しました。藤本君の顔は、闘病で頬が落ちたこともあるのか、学生時代の精悍な風貌そのままでした。我々同期の者共が覗き込ませてもらうと、いつもの仕草でふっと掌を上げ、おう来てくれたんだね、忙しいのに悪いね、と今にも言ってくれるようなそんな気さえ致しました。
彼の社会的地位、広大な人間関係、多数の人に慕われた人柄を反映し、まさに会場に溢れる参列者でありました。その中に居りますと、「社会の中での藤本君、ご家族ご親族の中での藤本君」の大きさに改めて感じ入り、「彼に対する思いや感謝」も、球朋会の私達が「独り占め」出来るものではないな、という思いが致しましたが、そんな時に藤本君の傍らに、あのKawasakiラケット・白色・New Number Oneが、そっと飾られているのに気付きました。その瞬間、藤本君が『僕にもつき合いはいろいろあるけどね、今日も、これからも、”君達の藤本・軟庭の藤本”でいいんだよ。』と言ってくれたように思えました。
本日、藤本君への追想、感謝を述べさせて頂きますが、勝手ながら、あの瞬間に戻らせて頂きまして、ここからは『藤本』と呼ばせて頂き、文体も敢えて丁寧体でなく進めさせていただきます。お許しください。
さて、誰にとってもそうでしょうが、藤本への思いは掛け値なしに山ほどあり、私の苦行は、山の思いの長文の何処を削ったら少しは短く出来るのかを決断することであります。
一番悔しい話は最初に片付けることにします。彼を襲った病魔は、みずほ銀行新宿支店長であった約二年前のガン発見に始まった。十二指腸付近の難所であるが、8時間の大手術にて摘出は成功したと聞く。我々は快気を祝い、彼もその後に新橋支店長に復帰した。以後、我々は、共に酒を飲み、ゴルフも出来た。我々は、その後の検査でガン再発見が無き事だけは祈り続けたが、変調の話は聞かず、本年6月にもゴルフをし、彼は従前同様、よく飛ばし、オリンピックでも皆がいやというほど取られた。昼食では水割りを何杯か、タバコも燻らす姿を頼もしく眺めたものだ。ただ、偶然とはいえ、「俺の場合はもう余生だから」という言葉が少し気にかかりはしたが---。しかしその後、9月の二度に渡るゴルフの誘いを、彼は珍しく断った。更に、新しい職場を欠勤しているかという話を聞き、我々は慌てて、ご家族に電話をすると、奥さんからは、9月末から入院中との話に愕然とさせられた。
本人が、知人にも知らせるなという指示だったようである。人に心配させたくなかったか、ご家族との時間を大事にしたかったか、定かでないが、しかしながら、奥さんは、同期の人だけには判っていて欲しいということで、我々は全状況を知らされた。そして許しを得、面会させて頂いた。我々は、どんな話をしたらよいものか迷ったままに訪れると、藤本は、わざわざよく来てくれたと、にこやかに迎え入れ、体の痛みがこちらにも伝わってくるような様子の中で、ガン再発見、転移の状況、複数の医師から手術での回復は無理、あとは奇跡的な効果を見込む薬品とか、療養の具合で好転をもたらすか等々の状況、即ち、奥さんから聞いたほぼ同様の内容を、藤本本人から淡々と聞かされるとは思ってもいなかった。藤本は、体が辛くなると、一人息子の剛史君に、続きはお前がしゃべれとの指示。来年東大卒業、就職内定の長男は、父の話の後を受け、これまた淡々と悪化の経緯を聞かせてくれる。しばらく後にはまた藤本が続きを話してくれる。我々は、この剛史君が球朋OB会にて、自分よりも大きいかという軟庭のラケットで遊んでいた姿を知っている。あの坊やがまあ立派になったもの。家族の一大事を父と子が話す。傍らで奥さんは病室では涙を見せまいと、夫と子を見つめる。ガン発見から今日まで、三人で全てを共にし、全力で闘ってきたご家族の強い絆を感じ、ただ圧倒された。
我々もさすがに、10月の終わりには、さらにお許しを得て、球朋の前後数年の方々だけには連絡をさせて頂いた。一先輩からは香港での薬品の話を聞き、全員で入手した。手紙を書き、体の痛む藤本に改めて言うも恥ずかしいが、生に執着してくれ、そのためには立派な一人息子でもまだまだ俺が見てやらねばくらいに無理してでも思ってくれ。音楽でも聴いてくれ、落語などどうだろう。梨のようなすっぱいものはまだおいしいと言ってくれたじゃないか。小宮は最期まで病室を見舞った。見舞いに行った者がモルヒネにも拘らず話が出来たとか、今日は意識がしっかりしていた等の小宮からの情報に一喜一憂した。一喜など殆ど無かったが。夜に鳴る電話に怯え、小宮からのmailを開けるのが怖かったが、遂には剛史君から知らされた。
病室の藤本は我々の顔を見たり、手紙を読んだり、応援の声を聞くたびに、にこやかに、そして丁寧にありがとう、ありがとうと言った。元気な頃のようにオウサンキュウ-で良かったのに---。ご家族にも病の辛さを嘆いたことはなかったそうだ。家族に伝える方が辛かったか、奥さんは「むしろ、口に出してくれた方がこちらも楽だったかも知れない」と振り返ることもあったと聞くが、苦しみは全部自分が抱える、それが彼の美学であり、生き様だったか、今となっては雄雄しさを称えるしかない。
剛史君は出棺の時、若者らしく長男らしく、そして実に立派に、挨拶をした。「父は生前、仕事の話、体の辛さなど一切話すことはありませんでした。ガン再発が判明した時も、不安も憤りもクチにすることはなく、母と私をなじみの店に連れて行ってくれるいつもと変らぬやさしい父親でした-------。」
ゴルフ場で、藤本は、『休暇を利用し、恥ずかしながら、家族で旅行をして来た。』と、少し照れて語っていた。恥ずかしながらという言葉が耳に残っている。我々はイタリアに行ったという話を、いつものように楽しく聞かせてもらったのだが、今から考えれば、時期からして、藤本一人で心に秘めた、ある覚悟での家族の時間だったのかとも思われる。寂寞、恐怖、病魔への怒りなどはなかったか、その心の中は想像を絶する。
藤本は軟式庭球の栄光の後衛である。(我々のものは、軟式庭球または軟庭またはテニスまたは軟式テニスであって、ソフトテニスというのは言葉も概念も存在しない。)
私が、一橋球朋会五十年誌に主将記録を書かせて頂いた時には、藤本が、このようなことになろうなどとは露ほども想像だにしていなかった。しかし、あの記念誌に、私は既に、藤本一人に対する賛辞を掲げていた。我々は昭和46年に三商大戦に優勝したのだが、それは全員が個を捨てて、戦略を立て、いかにも我々らしい「かっこうの悪い」優勝を、「なりふり構わず」もぎ取ってしまったと書いたものだったが、しかしながら、ある一選手の事を無視して全体で言うのはあまりにも均衡を失すると思い直し、次の一節を入れたのだった。『私はここまで、紙面の制約で個人選手名を書かなかった訳ではない。我々にとって、選手名の特定は不要であり無益であるのだ、何となれば-----。ただしかし、私達の年代で、ある一人のplayerの存在については語っておく義務がある。S48卒藤本理。これは何と言ってもすごかった。レベルが違う。インタハイなどの域を越えていて、都立西高校時代に国体の東京代表選手だった。当時は軟庭全盛時、東京では3千チ-ムは出場していたト-ナメントでナンバ-3であった。この藤本理の存在が我々の戦略の大きな核になっていたことは事実である。』と。
藤本のテニスの姿形を述べるために、葬儀の日に、私に届けられたmailを引用する。
『河田です。寂しいです。思い出すのは、白のテニス用スラックスと白のウェア、時に、白のVネックセーター姿の藤本さんです。あの、前衛をいや前衛だけでなく、後衛をも引きつけてしまうような、肩の入れ具合、早い構えから、高い打点で打ち込まれるレシーブ、トップ打ち---。俺たちは、本当にお世話になりました。ほとんど勝てませんでした。というか、勝った記憶はないような---。テニス以外、あまり話をさせていただいた記憶がないのですが、テニスのあの姿だけはいつも鮮明に浮かびます。---』河田というのは、藤本から8年下がっての主将である。それだけの年の差がある後輩に勝ってしまう藤本も改めて凄いが、コ-トでの姿は、この河田が語るとおりであった。我々の泥臭いテニスの中で、藤本のテニスは一人華麗であった。まさに、『華』があった。
我々の方は、弱き犬が吠え立てるように、ガンガン声を出さないとテニスにならないし、心の昂揚が瞬間の技術を高めることさえあったが、彼の場合は技術の為の声は不要だったろう。しかし彼は頻繁ではないが声を出した。それは、団体戦ゆえに仕方なしにではなく、自分に気合を入れる為だったような気がする。彼が声を出す時は怖かった。自分のボ-ルが決まった時、我々は歓喜で跳ね回ったものが、藤本はよく拳を握って、仁王立ちしていた。二代目貴乃花の鬼の形相の立ち姿に、ふと藤本の姿を重ね合わせたことがある。
高校での頂点の領域にいた彼は、一橋入学時にすでに本学の頂点に存在した。法政大学元監督をして、「一年の藤本だけがウィニングショットを持った後衛だ」と言わしめた彼は、国立大学の中ではライバルには恵まれず、仮にもっとレベルの高い環境であれば、またとてつもなく大きな選手になっていたであろう。本学で敵なしの彼であったが、しかしながら、練習での乱打・学内試合でも決して手を抜かなかった。彼の大学以後の功績は、テニスの何たるかを伝導し、多数の選手を育てた点にあるだろう。我々は彼のプレイを見るだけで勉強になったし、打ち合ってもらうだけで最良の環境を与えられた。「同期の小宮が、入学してからどれほど向上したか」は藤本の功績の好例である。へな猪口だった小宮は毎日藤本に打って貰い、藤本の足元に及んだ。小宮は藤本の現役テニス最後の四年間で一番打ち合ってもらった幸福者だろう。我々には、藤本を目指しさえすれば良いという明確な指標があった。
藤本のテニスは、我々の「なりふり構わぬテニス」とは遠くにあったはずだ。彼は、華麗な技術をもって、我々と共に闘った。藤本には華やかな戦績が山とあるのに、『自分のテニス歴の中で、三商大戦優勝が一番嬉しい』と言ってくれたのを、小宮は聞いている。藤本が、前述の三十年ぶりの三商大戦記を読んだ時の返信mailには次のように書かれてあった。『-----一気に読ませてもらいました。あの時はそういうプロセスだったので感激もひとしおだったのか、と改めてかすれた記憶を思い起こしました。あの時、すべてが終った後、コ-トで円陣を組み校歌を歌うと何故か泣けてきたことは、はっきり覚えています。個人戦ではありえないことです。ああ団体戦の不思議。------』
文を書かせて頂く者の特権として、私と藤本君との個人的関係を述べさせて頂きたい。私は某都立高の軟庭でもがいていた。インタハイ出場を条件に某私大に無試験入学できる密約があり、動機不純ではあるが、自分なりに人生がかかっていた。私が高二の時に、都立西高に一年ながら藤本ありの噂はすぐ届いた。東田中学で東京大会優勝と聞いている。分厚いドロ-の東京都の大会で、こともあろうに高二・高三と二度対戦させられた。前衛の私の横をすり抜けて決まる何本もの剛球に、世の中には凄い球を打つやつがいるものだと思い知らされた。彼は我々に手も足も出させず、颯爽とト-ナメントを登って行った。当時の軟庭では実力が違えば虫けらのように扱い、また扱われたものだったが、藤本はといえば、無残に負かした我々を見下すような事まるでなく、敗者である我々に敬意を払ってくれたことをよく覚えている。しかし、こちらは、以来、顔も見たくなかった。私大入りが露と消え、浪人生活を余儀なくされ、二浪にて、やっと国立に入れる位の受験術を手に入れた。一橋商学部の入試会場で、遠くに藤本の姿を見かけた。藤本は勉学の成績も抜群と聞いていたので、何だ、幸運によって私が一橋に入ったら今度はやつと同じ学校かい---心はときめかなかった。私に奇跡が起こり合格した。先輩からは藤本を誘って軟庭部に早く入って来いと言われるが気が進まない。弱小部と聞いていたし、藤本と一緒になれば弱小部なのにお山の大将になれない。結局私は入部し、後日藤本も入ってきた。同じ新入生だが高校での事もあり、私をさん付けで呼ぶ。何をやっても互いに遠慮がありよそよそしい。しかし五月だったか六月だったか、突然私をジクハラと呼びかけてきた。私は慌てたが、それでも間髪を入れず、オ・オウという感じで応えたと思う。それ以来、今日までフジモト・ジクハラと呼び合ってきた。全くもって藤本の配慮で、鮮やかに違和感が無くなった。しかし、テニスの違和感は残ったままだった。私のコンプレックスに因る。藤本がコ-トに立ちさえすれば勝てると思えて仕方ない。六部や七部にも猛者はいた。華麗なテニスが泥臭いテニスに敗れることもあった。あの藤本がこんな奴に負けることもあるのか、敵に向かってはお前の対戦相手の偉大さを認識しているのかと確認したかった。一方私は、藤本とペアを組めば勝てるのになどと思ったことは一度もなかった。彼の前衛になるや、ポ-チの一歩が出ない。前衛で一歩が出なければ百歩遅れる。前衛はポ-チしたらボレ-するしかないのに、確率からいえば藤本に打たせたほうが良いのではないかと思うと最後の一歩をやめてしまう。私に藤本の前衛が治まるはずはない、これが結論だった。年長につき私が主将になったが、藤本と組むのだけは避けに避けた。芯が強くない私には、技術弱ッチイ小宮のような後衛と組まないと前進出来ないのだった。不甲斐ない私に藤本は文句一つ言う男ではなく、それが又辛くなる。四年になり心進まずも作戦上ペアになった。しかし何がきっかけになったか、きっと藤本がジクハラと呼んでくれたような事をしてくれたのだと思うが、藤本にも前衛が必要なのだと改めて思えた時があった。それからというもの最後まで藤本と組み、最高級の後衛とペアを組んでのテニスを真から味わうことが出来た。四年の三商大戦で連続優勝した最終戦。私がポ-チしたら妙に角度がついたボ-ルが返ってきたのだ。私は迷わずポ-チを続け、私の一生であれ以上は伸びないだろうと思えるほどに右手が伸び、決めたボレ-が一本あった。これが私の一生の宝物になっている。藤本にもらった宝はまだまだある。三年の時の三商大戦優勝もその一つだ。私は藤本とのペアではなかった。藤本が対市大殲滅戦で掃討したことが勝因だった。ゼミも欠席の私は、就職するもついて行けず、早々に逃避し、国家試験勉強に入った。余りにも無謀な行動と他人は思ったろうが、私は、あの三商大戦で、人間にはとてつもない力が出ると感じていた。あれを思い出せば、人間はなんでも出来るはずだ。私は本気で思い込み、社会復帰したのだから、私は藤本からの宝物で今の人生を生きている。藤本の青春時代に一緒にいられたことが私の新たな宝になった。高校の時に藤本に二回も負かされたことが誇りであり、藤本が最後の三商大戦で六組回しをやりとげ優勝させてくれた時の前衛が私だったと私の妻に自慢をする。
藤本のテニスを、ク-ルに勝っていると勘違いする人がいたが、我々は、藤本は燃えに燃えて勝っているのを知っていた。自分は燃えながら、時にすっと引いて、客観的に自分を見ることも出来た。彼は最期の病床で、自分の病状を淡々と客観的に話したが、あれも藤本である。そして、心の中では病と大格闘していたに違いない。
ガンよ、奢るなかれ。彼は負けたのではない。俗世に息する肉体は失ったが、長男と妻が言うように、一言も病を嘆くことなどなかったのだ。二年前に手術をした後も、そして今回再発してからも平常心を失うことはなかったのだ。
藤本に教えられた。肝腎なことは、藤本のように、己に勝てるかどうかなのだ。
藤本は、我々の前を、鮮やかに、駆け抜けていった。潮田は、「竹を割ったような性格だった、今ではみかける事がない日本男児を見た思いだ」と呟く。尾木原は、「藤本に、逃げない姿勢と家族の絆を見せてもらった。それを自分の中でどう消化するのか考えつづけている」と話す。慶田は出張先のホテルから、「我々仲間に微笑んでくれているような顔が浮かぶ、藤本には周囲を気遣う温かさがあった」とmailしてくる。
藤本は、爽やかに、藤本の大きさの中を、淡淡と悠悠と歩いて行く。仮に私が彼だったら、自分の大きさを自慢しただろう。酒を飲んでは、自分の妻に語るだろう。息子にも、父さんはこんなに大きいぞとか、父さんが若かった時はこうだったとか、さりげなく見せる演技でもして、語っただろう。しかし、真の男というものは、そんなことに興味がないらしい。一橋球朋会屈指の名選手の父は、息子にテニスを強要することもなく、妻と子には、自分が中高時代軟庭界をも代表した腕前だったことの自慢一つしていないようだ。
前述の五十年誌に生意気にも、『私は、これからもplayerを、応援者を見届けていきたい。そしてもし後日、必要な時でもあれば、彼のコ-トあるいはコ-トサイドでの勇姿を、例えば彼の奥さんに伝えてやろうと思っている。』と、たまたま結んでいた。こんな形で、ご家族に、藤本の凄さを伝えねばならぬとは思ってもみなかったが、今後は、潮田・尾木原・慶田・小宮らと共に、奥様に剛史君に、我々の中に永遠に生きる藤本を長く語っていきたいと思っている。
30年経過したか、New Number One。白のフレ-ムは少々色はげていた。ガットはどうだ。今日の為に張られたわけでないのにしなやかさが失われていない。この鯨筋のみずみずしさは何故だろう。お兄さんが一緒に入れてやるのだと話されたそのラケットのグリップをそっと触らせてもらうと、しっとりとした感じさえあるのだ。藤本がラケットをそっと置いた日、その時とそのまま同じなのだと感じた。改めて、藤本は軟庭を愛し、軟庭を心から大事にしていたのである。
藤本理君。心からご冥福をお祈りいたします。
藤本よ。全てをこめて。ありがとう。