スーパーエリートの喪失

 

関 三郎(昭和36年卒業)

 

最良の友人、類稀なスーパーテクノクラートの起橋俊男君が逝った。まだ73歳それも現役を退いて7年程、これから夫婦2人の時間をタップリ楽しもうと云う矢先にだ。何年も前に肺癌を患ったが完全回復、その後気胸を患うも回復。1年前に同じ右肺に癌が再発、手術も無理との診断で彼は此の儘癌と共生しながら静かな余生を送る決断をした。地元の医者をホームドクターにし緩和ケアを受けながら好きなゴルフも偶には楽しんだようだが、私が昨年1122日に自宅へ見舞った時は元気で1時間半も話し込んだ。奥様によれば此のいっときはとても楽しんだ様だがその後も鎮痛剤を飲んでも痛みは治まらず酸素吸入を必要とする程呼吸も順調ではなかった様だ。

 

年内にもう一度顔を見て置きたいと思い連絡を取ったところ、1219日に血痰を吐き入院緩和ケア病棟に移され25日に御家族は主治医より危篤と告げられ122715時彼方への橋を彼は渡ってしまった。それでも彼は1223日には病院から私にメールを打ち「近く退院して正月は家で過ごす。見舞いはいいと言っても貴方は来るだろうけど前回程喋れませんよ」。死が間近に迫ってる中での此のメールに万感の想いがこみ上げ思わず涙した。次男の大輔さんによれば、苦しまず穏やかな最後であった由せめてもの救いであった。

 

 

起橋君はその能力、細やかな気配りに溢れた人柄、周囲の人々に対する奉仕精神に充ちた優しさ、これ等を兼ね備えた稀に見る人格者であった。私にとり先輩・後輩の枠を超えた掛替えのない親友でありその喪失感は何処迄も深い。私との交流は球朋会業務に共に携わった以外でも、私が独立した後統計的な資料が必要な時に相談に乗って貰ったり学生の指導・応援に力を尽くしたり多方面に亙った。彼の沖縄在任中に遊びに行き何日も一緒にゆっくり過ごした日々は、業務に追い立てられる事なく人生を語り合えた貴重な機会であった。

 

 

 

彼は又強いリーダーシップも兼ね備えて居た。

 

東海の名門旭ヶ丘高校時代はテニスの県代表として文武両道の才を遺憾なく発揮し大学では1年から4年迄エースとして其の名を馳せた。私が卒業後後輩の激励に赴く時物の無い時代と安月給の為牛乳を皆に奢るのが精一杯だったが、直近迄彼は私に「関さんの差し入れはいつも牛乳だったね」と言い続けて居たがそれも懐かしくも悲しく思い出される。

 

社会生活では、当時日本経済の大型投資を資金面で支えた日本開発銀行を振り出しに、東京湾横断道路の総務部長として出向、政治経済界のうるさ型との折衝・お守りを深夜迄こなし、日本移動通信へ移った後合併を通じて巨大化したKDDIでは京セラの稲盛氏に可愛がられ長く役員を務めた後、同氏がその功労に報いる為携帯電話市場を独占して居た沖縄セルラーの社長に任命し、楽な仕事で高給?を取りゴルフ三昧の5年程を過ごさせてくれた。

 

此の後多摩の自宅でゴルフ三昧、リタイア後凝りだした料理に腕を振るう夫婦2人きりの絵に描いたような優雅な生活を楽しんで居た時に何とも無常な運命の反転であった。

 

 

 

何と言っても起橋君との交流は、26年間に亙り精力的に二人三脚で行った球朋会の運営に尽きる。1981年迄の球朋会は、会員数も少なく十数名の会員が年一回如水会舘で宴会を開くのと服部先輩(30)の努力により毎年会報誌である「球朋」が発行された事以外に活動らしきものは行われて居なかった様である。

 

そこで田辺氏(32)と藤井氏(32)の両先輩が中心となり私他数名に球朋会活性化活動への参加を呼び掛けられた。

 

目標とするところは:

 

○組織の整備  

○具体的活動の強化 

○財政基盤の確立 

○現役の指導と援助

 

新しく発足した役員として藤井氏が幹事長、田辺氏は常任幹事、私は副幹事長として中核をなすよう発起人先輩が指名された。私は親友の起橋君が副幹事長になる事を条件とし以後26年に亙り此のコンビが球朋会の活性化を引っ張って行く事になる。

 

1981892人で副幹事長、198995は私が幹事長・起橋君が副幹事長、19952001は私が副会長・起橋君が幹事長、200107は私が会長だったが起橋君は沖縄赴任等で一時はずれ、私が幹部職からリタイアした後起橋君は201015会長職を死の間際まで務めてくれた。

 

まる20年間此のコンビで球朋会の今日の姿を実現すべく走り廻って来たが彼と私の役割分担は、一言で言うと私がアイディアを出し彼が具体案に纏めると云ったところだが、ヒントから整備された案を創り上げる才能は天才的でさえあった。組織、活動、財政、全ての面で彼のスーパーテクノクラートぶりが無ければ私の提案はアイディア倒れに終わり日を見る事はなかったろう。

 

2人共超多忙な本職を置いてよく此処まで頑張れたと思うが、深夜銀座でワインのグラスを傾けながら次の改革、次の次の改革を熱く語り合った日々を懐かしく、でも胸を締め付けられる思いで頭に浮かべる。これ程迄の奉仕は自由業である私と違ってサラリーマンである起橋君には大変な事だった。

 

時代は変り球朋会発展の歴史、それを齎した人々の事も多くは忘却の彼方へ飛び去ってしまっている。起橋君の業績を称える意味でその幾つかを此処に記す。

 

  • 198190 組織整備、規約改正、活動強化(2件→12)、球朋フォーラム(3)

  • 198898 女子就職支援セミナー(10)、球朋ファンド設立、学生支援金(805年かけて130)、財政(会費納入率90%越え)、支部開設(関西、中四国)

  • 1998~現役強化のの為外部コーチ招聘、球朋会創立50周年記念事業(50年史発刊は

    麻生(昭46)鈴木(51)両氏他の大変な努力があってこそ実現したもの)

  • 201014 私が1985から続けていたリーグ戦応援に沖縄から帰還後毎リーグ戦に

    同行。

     

    これ等は全て彼の存在無くしては実現出来なかったこと明白である。リーダーとしても協力者としても私の人生で彼以上の人にめぐり合った事はない。

    球朋会員の諸兄姉に於かれては、起橋君に追悼の祈りを捧げると共にこの機会に今日の球朋会の隆盛を齎した彼の努力、能力、熱意に改めて敬意を表しその業績を称えて戴きたい。

     

    友よ 安らかに眠れ

     

                        2016131日  関  三 郎

     

    (注)各活動の実行年等に若干誤りがあるかもしれませんが、一昨年の引越し時にヤマトが相当の荷物を紛失した為球朋会関係のファイルも手元に無くなりました。従って照合のし様がなく全て私の記憶で書きました。ご了承下さい。